ロープーウェイ利用で谷川岳に登る

2018年4月7日(土)午後発~8日(日)前夜発一日 

めぐろ山学クラブ・仲間の恒例の雪上訓練を実施しました。前日土合駅に泊まり、翌日天候の回復を期待して谷川岳を登りました。当初は、土曜日に雪上訓練をしてから翌日に登る予定でしたが、天候が良くないので、土曜日夕方に土合駅に集合となりました。


●天候:小雪から曇り時々晴れ、後小雪で変化の多い日

●ルート:土合駅6:30…6:50ロープウェイ駅7:10→7:20天神尾根7:50…岩場9:00…熊穴沢避難小屋9:15…ケルン11:07…谷川岳トマの耳山頂11:20…往路を戻る…雪上訓練後ロープウェイ駅で下山、バス→水上駅、反省会後帰京。※時刻は大まかなものです。

●メンバー:8人(めぐろ山学クラブ・仲間)ビッケル、ストック、アイゼン使用


朝の土合駅です。小雪が舞ってます。いつからか『もぐら駅』として有名になり、観光客が訪れるので、トイレがとてもきれいになりました。私達も助かってます。

<火気厳禁です>

ロープウェイ駅を目指して歩き始め、田尻尾根が閉鎖されていたので往復切符を購しました。ロープウェイを降り、身支度を整えてからスキー場のすぐ横のポールの外側を登ります。

<登山者は指定された斜面を歩く>

雪は矢張り少なく、ガスの中の登り始めたが、すぐにアイゼンを付けました。冬山装備を身に着けると、誰が誰だか分からなくなります。スキー場より、ひと山越えた辺りですが、まだガスで見通しは良くないです。

<ひと山越えて>

岩場では、フィックスロープは出ていたが、アイゼンも付けているので慎重に下りました。降り立った所で何故かピッケルを落とした人がいましたが、すぐに拾えて事なきを得ました。

<フィックスロープのある岩場を通過>

やがて、熊穴沢避難小屋に到着しました。小屋の入り口が雪で押されたのか、倒されていました。南側は晴れ間が見えてきました。ここで、休憩。

<熊穴沢避難小屋は屋根が見えていた>

進行方向は、まだまだ天気は回復してない感じです。

<雪の斜面を進む登山者>

雲の流れが速く、岩場混じりのところに差し掛かると、青い空も見えてきた。

<上部岩場混じり>

振り返れば、陽も差し始め天神平のスキー場方面や周囲の景色も開けてきた。皆、下向きでひたむきに登っています。

<下向きで登る>

登る途中で見かけた木です。以前撮影した記憶があるので、成長したのか、積雪少なくて伸びて見えたのか…?でも懐かしかったです。あの頃は、フィルムカメラでしたが。

<雪の重みから徐々に立ち上がる>

広大な斜面の脇を蟻の如く、人間は歩いています。下りでここを滑るスキーヤー&ボーダーを見ました。

<頂上へ通じる大斜面>

山頂手前にあるケルンですが、この時期に下部の石積みが見えているので驚きました。以前視界不良で、このケルンにロープを渡して、先輩達が肩の小屋を探したこともありました。

<ケルン>

何故か横並びで、メンバーが登ってきます。後ろには、スキーやボードを背負った方々もいて、帰りに華麗に滑り降りてゆきました。

<横並びで進むメンバー>

肩の小屋も見えてきましたが、建物が雪から出てました。

<肩の小屋前で憩う登山者>

山頂で記念写真を撮り、肩の小屋方面へ下り一休み。小屋前の鐘は、氷付いて鳴らせませんでした。

<エビのシッポが沢山>

下りは、登ったルートを戻るだけでした。スキー場横の斜面で、滑落停止の練習を行いました。ロープウェイで降り、バスで水上駅に出て反省会をして帰京しました。しかし、入った店にはビールが無く、自分たちで近所で調達?。今回は、手軽なお酒をお土産としました。

『私の山谷川岳』杉本光作(1907年~1980年)著 中央公論社 1981(昭和56)年4月初版

私は、1996年11月に渋谷の古書センターで手に入れてます。あの頃よりは、様々なルートで谷川岳には登っているので、今回再読してみていろいろ気が付いたこともありました。上越線が開通する前と後の変化や、戦前戦後の登山の実際の様子、写真や概念図もあるので分かり易いです。彼が今のモグラ駅・土合駅を見たら、ロープーウェイを見たら、今の装備を見たら、いかばかりであろう。学生登山に対抗して勤労者が登れる山として脚光をあびた谷川岳、あまりにも多い犠牲者にも提言を発している。事故当時松濤明氏は、著者が代表の登歩渓流会にも属してまた、北鎌尾根で遭難した松濤氏の遺書も掲載され、読み応えは今でも十分ありました。惜しいことに杉本氏はこの本の後書きを記して、すぐに亡くなっているので、唯一の著書であり遺稿でもあります。

<単行本>

<アイキャッチ画像:途中で出会った雪の華>